バカッターって言うけど、若い時には悪いことくらいしたことあるでしょ?

バカッター

ここ最近ずっと、定期的に話題になっているような気がするのですが、通称「バカッター」と呼ばれる一連の騒動が先日も話題になりました。

拾ったカードをツイッターにアップし「ネコババ自慢」したユーザ炎上:秒刊サンデー

バカッター事件とは、若者がツイッターでつぶやいちゃいけないような、問題行為を自分で世間に公表して炎上してしまい、場合によってはそのツイートをしてしまった若者がバイトをしていたお店が閉店してしまったりと、当事者にとっては笑えない状況となってしまっている事件のことです。

しかし、毎日のように話題に上がる「バカッターの仲間たち」の所業を見ながら思うのは「この時代じゃなければ良かったのにね」ということです。

もちろん、彼らの行為は褒められることではないですが、それは彼らがインターネットというものをいまだに匿名のものだと思い込んでいたりするのが原因なのだと思います。
つまり、ツイッターを始めとするSNSなどの現代人を象徴するようなサービスが存在しなければ、こんなにも事が大きくなることはなかったのでは無いかということです。

若気の至り、とでも言えば良いでしょうか。
つまり、何が言いたいのかというと、ぶっちゃけ一連のバカッター事件でやってしまったくらいの悪いことって、若い時にやった人たくさんいるでしょ?ということです。

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バカッターはインターネットの急速な発達が産んだ悲劇

若い時は大なり小なり悪いことをしてしまうことはあるはず

そう、人は誰しもが若い時は熱病にうなされるかのようにはっちゃけてしまう時期が必ずあるはずなんです。

例えば、大企業の社長とか、政治家とかのある程度の年齢で社会的な地位が高い位置にいる人も、若い時は何か一つくらいの悪さをしているはずなんです。

僕は、10代の頃はとっても良い子で通していたので、悪いことは全くしていない、と言いたいところですが思い出してみれば、ツイッターでつぶやいてしまったりすると大炎上しそうなことをいくつかやってしまった記憶があるようなないような…

たぶん、全く悪いことをしたことが無いという聖人君子のような人はいないのではないでしょうか?

そして、もしもそんな人がいたらと想像すると、ちょっと気持ち悪い気もします。
若くて多感な時期に、気の合う仲間たちとちょっとした悪さすらしたことが無いという人は、逆につまらない人だなあくらいに思ってしまいます。

バカッター事件で起こってしまった画像を見る限りはそれがおもしろい人間とはとても言えなくて、本当にモラルのない人達だなあとしか言いようがないですけどね。
彼らの行為は全く擁護できるものではありません。

でも、今も昔も非常識な人間は一定数存在していたはずです。

ただ、昔の若者と今の若者の決定的な違いは、デジタル機器の普及している時代に生まれていたかどうかという点です。

ツイッターがなければバカッターは生まれなかった

そもそも、ツイッターという現代人を象徴するようなものが存在しなければ、たとえ多少の悪さをしたとしても、そこまで大きな問題となることもなかったのです。

インターネットというのは便利な反面、非常に危険な側面も持ち合わせています。
ツイッターでもFacebookでもブログでもそうなのですが、何かを書き込めば瞬時に世界中で閲覧が可能となり、その投稿が話題となればシェアされて、爆発的な勢いで拡散してしまいます。

それが有益な情報や自分が世間に広めたいものであれば、拡散されることは歓迎すべきですが、拡散するのは本人にとって都合の悪くなる事柄であることが多いのが現状です。

かつて、インターネットがなかった時代では、情報を世間に瞬時に伝えることができるのは、ごく限られた一部の人間だけでした。
テレビに出演している芸能人や、新聞の記事を書いている記者などがこれに当てはまります。
故に、テレビに出演したり、新聞や出版物などに何かを書いたりできる人間は現在よりもずっと特別な存在でした。
世間に情報を発信することができる唯一の存在だったのです。

しかし、インターネットというものが生まれて、発展してきた現代においては、どんな人でも等しく、情報を発信できるチャンスがあります。

”どんな人でも”というのがポイントなのですが、世の中に数えきれないほど人間がいれば、ごく僅かではありますが問題行為を起こしてそれをツイートしてしまうようなおバカさんがいるものなのです。

そのために、バカッター事件なんていうものが生まれてしまったというわけです。

バカッターの心理

バカッターなことをしてしまう人と言うのは主に次のような心理が重なって、問題行動を起こし、そしてそれをツイートしてしまったと考えられます。

  1. その行動が問題であると認識していない、もしくはダメだと理解していてもやってみたいという欲望を抑えられなかった
  2. 自分の行動をアピールしたい
  3. インターネットの性質を理解していない

①と②は若い時は誰もが経験する「若気の至り」というやつです。
これは、昔からずっとあることだし、誰もが経験する心の動きだと思います。

10代の時などは特に、とにかくどんな形であれ自分の存在を人に認めてもらいたいと、本能的に考えて行動に移してしまうことが多々あります。
それが人によっては、半社会的な行為だったりすることもあるはずです。
しかし、①と②の要素だけならば、バカッター事件が起こることはなかったのです。

問題なのは③の「インターネットの性質を理解していない」という知識の不足から来る認識の甘さです。
先程も書いたように、インターネットというものはだれでもが等しく情報を発信できて、それが拡散できるチャンスがあります。

それに加えて、インターネットというものは匿名やハンドルネームでの情報発信が可能ではあるのですが、実際は違います。
確かに、表向きは匿名でネット上での活動ができるのは事実です。
しかし、本当は自分の正体を完全に隠すことは非常に難しく、調べればすぐに本名や住んでいる街、電話番号などがバレてしまう場合が多いです。
特にツイッターなんてものは、過去のツイートを遡れば個人情報のヒントになることなんてたくさん発掘することが出来ます。

もしも、個人情報が含まれていないような捨てアカウントでのツイートだったとしても、それが匿名であるとは言えません。
例えば、その問題ツイートが法に触れるものであったりしたら、警察が介入する事態にもなります。
そうなったら、IPアドレスとかいろいろ調べられてすぐに捕まってしまうことでしょう。

もちろん、串を通したりとかでIPアドレスを偽装する方法もありますが、そんなツイートを不用意にしてしまう人間がそんな細工をしたりはしないでしょう。

インターネットの特性について

ツイッターは便所の落書きの代わりみたいなもの

昔は何か悪さをして、自分をアピールしたとしてもせいぜい便所の落書き程度で済んでいました。
たとえそれが、もしも学校にバレたりとか警察沙汰になったとしても、その街で噂になったりとか、最大でも新聞に載ってしまうくらいでした。
その程度ならば、長期間に渡って社会的に抹殺されたり、ネット上に自分の不名誉な画像などが残ったりすることはありませんでした。

しかし、誰もがスマホを持ち歩いている現代においては、個人の情報発信能力が当時とは比較にならないほど高まっています。

問題のある内容のツイートをしてしまうおバカさんは、情報の拡散するスピードの早さと、自分の身元が割れる可能性について考慮していないということです。
また、自分の個人情報がネット上に漏れてそれが悪い意味で広まってしまうことの恐ろしさを、理解していないのでしょう。

バカッター事件が起こってしまう背景には、インターネットを利用している人間の全員が、その特性を理解しているわけではないということが、大きく関与していると考えられます。

インターネットの非匿名性に対する理解が足りず、さらに自分のちょっとした悪さを自慢したいという欲求が特別強く、そしてツイッターを自分の欲求のはけ口として使っている。
これらの要素が運悪く重なってしまった時に、世の中に新たなバカッターが誕生するのだと思います。

学校教育の中でネットマナーの教育をもっとしっかりやるべきなのか

インターネットと言うのは不特定多数の人間が利用しているので、中にはネットリテラシーの極端に低い人も多く存在しています。

まあ、それはいろんな人がいるから、しかたのない部分はあると思います。

しかし問題なのは、これだけインターネットが普及して誰もがそれを利用するのが可能であるのに、インターネットを利用するときのマナーや注意点などを学ぶことができるのは、インターネットを実際に利用しながら学ぶくらいしか方法がないということです。
そして、社会全体がインターネットに対して正しい教育ができる体制が整っていないのが問題です。

学校教育の中で、それを行えば良いのかと言うと、僕はそうは思いません。

少なくとも、僕が高校生とかの頃はインターネットがまだ発展していなかったので、学校教育の中でそのようなインターネットに関しての授業は全くありませんでした。
さすがに最近の小中学校などでは、ネットマナーなどに関する授業の時間というのはあるようですが、はたしてそれで十分といえるのでしょうか?

自分の情報が瞬時に世界に向けて発信できてしまうこと、それがけして匿名ではないということ、それに情報のシェアによって恐ろしい勢いで拡散されること。
これらが本当にしっかりと学校教育の中で子どもたちに伝えられてかつ、それを教える人達の知識も、その時間も十分なものであるかは甚だ疑問です。
本当にその分野での教育が十分ならば、バカッターが現れるわけがないんですよ。

バカッターしてしまう若者は確かに良くないです。
それが原因でお店をたたんだ人もいるのだから、ひどい話です。

でも、それはネットの使い方を教えるべきである学校の先生が悪いのではなくて、時代の急速な変化に根本的な原因があるのだと思います。

情報社会の急速な発展

時代の変化について来れない

現代におけるインターネットの存在は、もはや我々の生活の一部です。
そのような生活に根ざしたものの知識は学校で学ぶものではなくて、普段の生活を送りながら周りの大人が教えたり、自分で経験して自然と身につけていくことだからです。
例えば、箸の持ち方とか、友達との遊び方とか、僕達がいつの間にか自然とできるようになっていることですが、これは学校で学ぶことではなく普段生活する中で自然と身に付けるものです。

インターネットの利用に関してもそれと同じです。
食事をしたりとか、友達と会話したりするのと同じくらいに、インターネットというものは現代人の生活に馴染んでいます。

でも、それが箸の持ち方や自転車の乗り方を教えるようなわけにはいかない事情があります。

それは、実際にそれを教える親とか周りの大人と言うのは、まだインターネットという新しいデジタルな技術に馴染んでいない場合が多いということです。
だから、インターネットの危険な特性について教えることも出来ないし、しっかりと教える必要性を感じていないのです。

一言断っておくと、これはしかたのないことでもあると思います。
なぜなら、人間はそんな急速な変化に対応できないものだからです。

特にデジタルなことに対しての学びに拒否反応を起こすのは、決まって年配の人です。
本来であれば人間というのは、そんなに急激な進化に対応できないものなのです。

スマホが普及し始めて数年しか経っていないという事実

iPhoneが誕生したのは2007年のことです。
いつも肌身離さず自分の一部であるがごとくiPhoneを持ち歩いているから意外ですが、数字で見るとごく最近のことです。
iPhoneは画期的でありながら当初はそこまで普及するものと思われていなかったのが印象的でしたね。
しかし、今は周りを見渡せばiPhoneや他のスマホだらけです。

たった、数年で世界はまるっきり変わってしまったとも言うことが出来ます。

しかし、人間はそんな短い期間で自分自身を根本から変えることなんて出来ないのです。
でも、実際には時代はとてつもないスピードで変化し続けています。

おそらく、今生まれてきている子どもたちはネイティブデジタルなんて呼ばれているように、スマホやPCなどのデジタル機器やインターネットをすんなりと、そして正しく扱うことができるようになるでしょう。
自然とインターネットというものの特性や危険性も理解して、将来的には危険な情報を発信してしまう人も減るのではないでしょうか。

しかし、今はその時代の変化の過渡期です。
バカッターというものが誕生してしまったのは、インターネットの急速な発達と、それに慣れていないが故に起きてしまった悲劇だったと言う他ありません。

なぜ、バカッター事件はムカついてしまうのか

共感と憤慨

さて、この一連のバカッター事件ですが、新たなバカッターが登場する度にすごくいらいらしてしまう自分がいることに気づきます。
それは、僕だけではなくて、多分みんな同じだと思います。

でも、なぜこんなにもムカついてしまうのでしょうか?
これは、多分ですけど、バカッターの行動に対してある一定の「共感」があるから、感情が動いてしまうのでだと思います。

人は自分が全く興味のない事柄に対しては感情が動くことはありません。
たとえそれが、どんなに凶悪な犯罪であっても、あまりにも自分の経験や考え方と異なっていると、まるで別の世界の出来事のように完全にスルーしてしまうはずです。
被害者への同情とかそういう感情は芽生えるかもしれませんが、それだけです。
そこまで大きな感情の変動は見られない事が多いです。

しかし、バカッター事件で報道される不祥事は、ある意味で親近感を覚える部分があります。
と言うのは、誰しもが若い時は大なり小なりの過ちは犯しているはずだからです。
つまり、バカッターを見つける度に人は、無意識にかつての自分の姿と照らしあわせてしまうのです。

しかも、バカッターと言うネーミングだけあって、この騒動を起こす人達は本当に馬鹿です。
なぜなら、知られれば自分の人生に悪影響を与えるようなことをやってしまい、なおかつ自分の手でそれを拡散してしまっているからです。
それも満面の笑みで。

そんな時にそれを見る人は、非常に残念でありながら、なんとかできなかったのかという憤りにも似た感情が芽生えます。

その感情は、自分自身にも見に覚えがあるから芽生えることなのかもしれません。
バカッターと呼ばれるようになってしまった、若者の姿が過去の自分と重ねられて、妙な親近感とともに強い怒りを引き起こしてしまうのです。

ある種の共感と、その行為によって棒に振ってしまうであろう自分の人生など微塵も感じさせない笑顔に対して憤慨する気持ち、この両方が重なることで、それを見ている人はムカついてしまうのです。

まとめ

ツイッターやFacebookなどは手軽に誰かとコミュニケーションをとったり、情報を収集できるという点において非常に便利ですが、一歩使い方を間違えると大変なことになりかねない、危うさを兼ね備えています。

若い時に、多少の悪さをしてしまうのは、ある意味仕方がない部分があると思います。
これは、自分の存在を認めて欲しいという、誰もが若い時に持ち合わせていた欲求の一つです。

自分を何らかの形でアピールしたいという欲求と、ツイッターで呟くという行為がどういうことなのかという正しい認識の欠如が、悪い形で重なり合うことで、バカッターというものが生まれてしまったのだと考えられます。

ツイッターというサービス自体も2006年からスタートしている、比較的最近誕生したサービスです。

故に、ほんの少し前であれば、問題行為が明るみに出たとしても、それが社会現象とも言えるような大きな波紋となることはなかったはずです。

スマホの普及とともにものすごい勢いでツイッターは全世界で利用されるようになってしまったわけですが、その利用者の全てがツイッターやひいてはインターネットの特性を理解しているとは到底思えません。
というよりもインターネット市場の成長速度が早すぎて、ごく一部の専門家以外で本当の意味でインターネットを理解できている人はいないのではないのかというのが正直な感想です。

つまり、この一連の騒動には、実は「悪」と言うものは存在していなくて、あるのは時代の速度についていけない人間の存在だけということになります。
ある意味、不祥事を自慢気に自分の手で拡散してしまった若者たちは、被害者であるということもできるかもしれません。

バカッター並に悪いことしたことある人は、今も昔も変わらず実はたくさんいて、昔はそれが明るみに出ることが少なかっただけという話です。
なぜなら、若い時に悪いことをしたことのない人なんているはずないからです。

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