【作品紹介】ピンポンガエル:日本人の無意識下の感覚の具現化

ピンポンガエル

久しぶりに生き物系の作品を制作しました。

タイトルは「ピンポンガエル」です。
その名の通り、ピンポン球とカエルを合わせたようなイメージの作品です。

今回、「ピンポンガエル」は全部で31匹作りました。
この作品の制作工程上の特徴は、作品の素材として実際にピンポン球を使っているという点です。
ピンポン球

ピンポン球に樹脂粘土の手足とアクリル製の目が付いています。

この作品のデザインは、ピンポン球に命が宿って動き出すとしたら、きっとこんな感じかな?ということを想像して考えました。

「ピンポンガエル」を制作した動機は現代の日本における社会の現実と、日本人の感覚に違和感を感じたから、というものです。
そこで、日本人の根底に息づいている思想を具体化したのが、この作品です。

そうすることによって、現代社会に内包する様々な問題に関して、疑問を投げかけることができるのではないかと考えました。

スポンサーリンク
ad1

ピンポンガエル

コンセプト

ピンポンガエル
「ピンポンガエル」のコンセプトについて説明していきたいと思います。

日本人の独特な宗教観

ピンポンガエル
日本の古来からの思想で、「ありとあらゆるものに魂が宿っている」という考え方があります。
これは神道の八百万(やおよろず)の神などに代表される、我々日本人に根付いている思想の1つです。

現代社会における日本人は、殆どの人が自分の事を「無宗教」だと考えていると言われています。
特定の宗教組織に所属している、と言う人は少ないというのが現状です。

しかし、日本人が言う「無宗教」は海外の無宗教とはちょっとだけ違うと思うんですよね。

というのも、なんだかんだ言って、定期的にいろんな宗教的な行事に参加しているからです。
毎年、多くの人が正月になると初詣ということで、神社などに参拝したりしますよね。
あれって、「神道」という宗教に属していなければ本当は行く必要はないと思うのです。

でも、神社に参拝する人の中で、「自分の宗教は神道です!」と答える人は少ないはずです。
僕も初詣には毎年行って、手を合わせますが、自分の宗教が神道であると思ったことは一度もありません。

また、僕達は「寺」にも何かと訪れますよね。
どこかに旅行に行った時などは、何故か歴史のある寺を目的地としてしまうこともあるかと思います。
寺というのは「仏教」という宗教の施設なわけですから、本来であれば無宗教の人は訪れる必要はないはずなのです。

また、もっとおかしいのがクリスマスやハロウィンなども日本人は盛大にお祭り騒ぎをするという点です。
この2つは両方とも、欧米の宗教のお祭りです。
西洋の宗教ですら、平気で自分たちのイベントとして参加してしまうという日本人という人種は、かなり特殊であると言わざるを得ないでしょう。
ピンポンガエル
なぜ、日本人は多くの人が「無宗教」であると考えているにも関わらず、様々な宗教を取り入れてしまうのか?

それは、この小さな島国の単一民族は「無意識化で意識を共有してその思想を反映する」という性質があるからだと思うのです。
つまり、意識して宗教に参加するのではなく、意識しないで自然と行事や考え方に参加できるという特技がある、というように言い換えても良いかもしれません。

和の心

ピンポンガエル
これは、日本列島という小さな島国に暮らす、日本人の特殊な環境が生み出した性質であると考えられます。

まあ言ってしまえば、狭い場所で皆で上手くやっていくには、協調性を高めていくしかなかった、ということなのですよね。
もっと言うと、日本人は農耕民族ですから、近所づきあいがうまくいかないと生きていくことが難しかったということです。
ピンポンガエル
そこで培われたのが「和の心」です。
これは、意識して皆と仲良くするのではなく、自然体で協調性を持つことができるという特殊能力です。

僕たちは、自然と周りに合わせて輪を乱さないように振る舞いますよね。
日本人の独特な価値観や考え方、それに礼儀正しさと言うのは、そんな「和の心」が原点にあるのではないでしょうか。

そして、その自然と感じ取るように周りに合わせることができるという性質は、色んな物を違和感なく取り入れてしまう宗教観にもつながってくるのだと思います。

なぜカエルなのか

ピンポンガエル
さて、今回「ピンポンガエル」という作品を作ったわけなのですが、この作品の発想の元となっているのは、「ありとあらゆるものに宿っている魂」という存在です。
これは前述した、神道の「八百万の神」という思想からきているものです。

ピンポン球に宿っている生命を表現するとしたら、どのような形状の生物になるのだろうか?
ピンポン球は跳ねるものだから、きっと跳ねる生き物なのだろう…
跳ねる生き物と言えば「カエル」?
ピンポンガエル

ということで、カエルとピンポン球を組み合わせた生き物をデザインして、表現してみたというわけです。

ピンポンガエルを制作した意図

ピンポンガエル
日本人の宗教的な感覚というのは、他に類を見ないくらいに「自然体」だというのが特徴的です。
それ故に、誰しもがなんとなくものを大事にしたりとか、なんとなくご飯粒を残さずに食べたりするではないでしょうか。

うん、ご飯を食べるときはご飯粒を残したり、残しているのを見るとすごく気分が悪いです。
これは、古くから僕達が代々受け継いできた感性なのだと思います。

特に、「八百万の神」という信仰は日本に古来から存在している、日本人独自のものです。
つまり、「ありとあらゆるものに魂が宿っている」という考え方は、「思想」というよりも日本人の根底に息づく無意識的な感覚と言っても過言ではありません。

しかし、問題なのはその感覚というのは、無意識なものなので自分自身でも認知できないことが多いものだということです。
それは、人間の心の中だけに存在している、形のないものなのです。

「ピンポンガエル」という作品を制作したのは、我々が自然と感じている無意識的な感覚の具現化という目的があったからです。
それを、立体的な造形として、視覚的に捉えることが可能な、小さな彫刻作品とすることで、日本人の独特な宗教観を具体化して表現できるのではないかと考えました。

それが、「ピンポンガエル」を制作した意図です。
ピンポンガエル

制作工程

この作品、「ピンポンガエル」の制作工程について簡単に説明していきたいと思います。

ピンポン球に手足と目をくっつける

ピンポン球
「ピンポンガエル」の制作工程の最大の特徴は、実際にピンポン球を素材として使っているということです。
それによって、より明白にピンポン球に宿っている魂を表現できると考えたからです。

その制作工程は、基本的にピンポン球に樹脂粘土の手足と目をくっつけていくと言う工程となっています。
ピンポンガエル 制作途中
まず、ピンポン球に樹脂粘土のペースト状の下地を塗ります。
ピンポンガエル 制作途中
そして、手足と目をくっつけます。
ここから、作品としての完成度を高める作業をしていきます。

テクスチャー

ピンポンガエル 制作途中
ある程度の形ができたら、作品の表面に樹脂粘土のペーストを使って、カエルっぽい粒粒したテクスチャーを作っていきます。
ピンポンガエル 制作途中
かなり完成に近づいてきました。

ピンポンガエル 制作途中
面相筆とアクリル絵の具を使って、模様を描いていきます。

「ピンポンガエル」は実在するカエルではありません。
なので、模様もピンポン球のカラフルな色のように、鮮やかで自由な色合いにしました。

ピンポンガエル 制作途中
最後に透明な耐水塗料を塗って、乾燥させて完成です。
ピンポンガエル

まとめ

「ピンポンガエル」は、もしもピンポン球に宿っている生命が具現化したら?ということを想像して作った作品です。
そこには僕達日本人の宗教観と、独特な感覚的な考え方、という背景があります。

とかく、日本人は余計な軋轢を避けるために様々な事柄を曖昧に表現すると言う性質があります。
それは、狭い島国で皆で仲良くやっていくためには必要なことでした。

しかし、現代の日本では様々に技術の発展とともに、必ずしも適当に受け流すことだけが重要ではなくなりつつまるように感じています。
多様性の時代である、2014年現在の社会においては、ひょっとしたら身の回りの環境に自分を無理に合わせる必要はないのかもしれません。

普段の生活を送る上でも、ニュースで話題になっている事柄を見ても、そこに矛盾があることが多いように思います。

現代社会における様々な問題を引き起こしているのは、日本人の周りに流されやすい、自分の主張を控えめにしてしまうところが大きいと思うのですよね。

ブラック企業とかニートや引きこもりとかその他のいろいろな問題は、多くの人が昔ながらの感覚で今の時代に突入してしまったツケが回ってきた結果なのだと思います。
ピンポンガエル
そこで、日本人の古来から継承されている「あらゆるものに宿る魂」という思想を具体的に目に見える形とするために、立体作品として表現してみようと考えました。
この思想は、僕達の無意識下で自然と行動に移される感覚です。
それを具現化したのが「ピンポンガエル」です。

つまり、この作品は日本人の古くから培われてきた感覚と、現代社会の問題点へのアンチテーゼでもあるというわけです。

故に、僕達も「なんとなく」感覚的に協調性だけを重んじるのではなく、時には主張をすることも大事だと思うのです。
それが、時には集団の輪を乱すことになっても、その方が良い場合もあるかもしれません。

「ピンポンガエル」という作品を制作することによって、そのような感覚的な曖昧さへの問題提起としようと思います。

スポンサーリンク
ad1
ad1

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です