子供の時に学校の勉強をする意味はないけど、あると言えばある

勉強

とうとう今年ももうすぐ終わりですね。
高校や大学の受験を控えている受験生にとっては、最も忙しい時期なのではないかと思います。

まあ、僕の周囲には受験生はいないので特に関係ないですけれど、この時期になると思い出すのです。
小学校、中学校、高校の勉強って意味があったのかなと・・・

今思えば勉強の内容には特に意味がなかったような気もしてきます。
日常生活で役に立たない古典だとか、6年も学んだのに全くと言って良いほど話すことができない英語だとか、遊びたい盛りの子供時代に時間を割いてきたのは無意味だったのでしょうか?

それは長年の疑問でした。

でも、最近ちょっと考え方が変わってきて、「ある意味、意味があったのかな」とも思うようになりました。
「勉強をするという行為に一生懸命になる」ということに大きな意義があったのではないでしょうか。

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勉強の意味

小学校→中学校→高校と進学する度に使いどころがわからなくなる勉強

学校での勉強に関して意味がないのではないか?と書きましたが、義務教育の期間の中でも小学校時代の学科の勉強に関しては、意味があります。
今回の話の趣旨とは若干異なるのですが、小学校の勉強だけは別です。

それは掛け算の九九だとか、基本的な漢字の読み書きだとか、日常生活で普通に使う内容が含まれているからです。
小学校の頃の勉強だけは、現代人らしい生活を送るためには、ある程度は出来る必要があるのです。

しかし、小学校から進学して中学校や高校に行くと状況が変わってきます。
様々な学科の学習内容が「将来、何に使えばよいかわからないもの」に変化してしまうものが多いです。

考えてみれば、実際に日常生活で使っている知識なんて、本当に小学校で習ったことの一部だけです。

数学の難しい方程式とかも何に使えばよいかわからないですし、国語の授業で習った漢文や古文も活用方法が思いつきません。

社会科で習った歴史なんかも個人的には好きでした。
けれども、長い時間をかけて学んだ意義はわかりません。

英語なんかも何年間も学校の授業を受けただけで、ペラペラもなった人なんていないのではないでしょうか。

最も基礎的な小学校の勉強を除けば、各学科の内容に関して言えば、誰もが納得できるような意味はないのではないでしょうか。
辞書

受験のための勉強

本来であれば、学校の勉強内容というのは有意義なものであるはずです。

例えば、英語はきちんと使いこなせるようになればいろんな国の人と話すことができるようになるし、歴史の勉強もしっかりと理解していれば現在の政治の情勢を理解するために役立つはずです。
しかし、実際には「役に立つレベルにまでいかない」というのが問題なのです。

それは、中学校からの勉強が「受験」を意識したものに変化するからです。
受験に受かるための勉強となると、点数をとるための授業となってしまいますからね。
学校の先生も本質的な、本当に大事な部分は端折らざるを得ないのです。
そうなると、生徒も興味を持ちにくいですし、学校の勉強が「受験以外では役に立たない」という事態になってしまうのです。

しかし、現代社会のシステム上は、今の学校の勉強内容を有意義なものに変化させることはできないでしょうね。
とにかく今は「学歴至上主義」ですから、親も学校の先生も「レベルの高い大学」に子供を行かせる事が、子供の幸せと信じて疑わないからです。
それこそがステータスであり、成功者の条件だと多くの人が考えています。

勉強の本質というのは生活を豊かにするためのものです。
しかし、「子供たちが受験で点数をとるために勉強をさせられている」という事実が全てをおかしくしているのです。

生きていくための力を鍛えるための訓練

現在の教育の形態を変えることは、しばらくは無理でしょう。

そこで、意味のない勉強の内容だったとしても、実は意味があったのかもしれないという話を書いていきたいと思います。

勉強をするという行為そのものに意味がある

前述したように、個人的には学校の勉強の内容には意味はないと思っています。
しかし、最近になって「勉強をするという行為そのものには意味がある」と言う気がしてきました。

というのもテストで点をとるための勉強というのはある意味で「競争」のようなものだからです。

「勉強は子供にとっての仕事」だと言うことがありますが、それはその通りで苦労して勉強という仕事をして、報酬としてお金の代わりに得ることができるのは、自分自身の「能力」です。

ここで言う「能力」と言うのは、いわゆる学科の勉強の内容という意味での「知識」ではなく、「自分で考える力」という意味です。

定期的に受けなくてはならない「テスト」という競争や、上位の学校に行くための「受験」という試練が、子供たちを大人へと成長させるのです。

競争で勝ち抜くために工夫する事

競争を勝ち抜くためには、ただ努力をするだけではダメです。
それなりに工夫をする必要があります。

そして、その「工夫の方法」と言うのは周囲の大人は教えてくれるものではありません。
少なくとも僕の子供時代ではそうでした。
「勉強をしろ!」と口うるさく言われた記憶もないですが、勉強のノウハウを教えてもらった記憶も一切ありません。

そんな僕ですが、中学校時代まではかなり真面目に勉強していて、成績も良くて優等生でした。
定期テストでも学年の順位はいつも一桁台でした。

でも、勉強をしないとやっぱり良い点はとれなくて、最初に勉強をしっかりとやろう!と思って真面目に取り組むようになってすぐの時は全然ダメでした。
テストで良い点をとれるようになったのは、中学生ながらにいろいろと工夫して勉強し始めてからです。
いかに効率よく勉強をしたら、多くの英単語を覚えることができるのかとか、塾などにも通っていなかったので自分でやり方を考えて勉強しました。
そうすると周囲との差が出てきて、通っていた中学校では成績上位者になることが出来ました。

成績を良くするためには、ただ単に時間をかけて勉強をしてもダメなんです。
時間というのは有限ですから、他の人よりも良い成績を収めるためには必ず「工夫」が必要です。
効率重視で勉強をしないと、他の人との差をつけることはできません。

勉強の意義というのは、このように競争に勝つために「工夫」したりとか、「効率」を考えた作業をするための能力を鍛えるためのものなのではないでしょうか。
効率を考えたお茶の入れ方

社会人になってからのこと

義務教育が終わって、高校→大学→社会人となると、誰もが「仕事」をするようになります。
しかし、「仕事」と言うのは厄介なもので、学生時代とは比べ物にならないくらいの「クオリティ」や「量」を求められることとなります。
学生時代と違って、ミスをしたりすると周囲の同僚や顧客の迷惑になるのですから当然の話です。

そこで、同じ時間でも多くの作業量をこなすことができるためには「工夫」が必要になってくるのです。
作業時間を短縮するための工夫ができないと、迷惑なだけでなく、自分のプライベートな時間も少なくなってしまうはずです。

そういう時に、子供時代から効率よく勉強するための工夫を自分の力でやってきた人は、クオリティを落とさずに多くの仕事量をこなすためにどうすれば良いのかということを真剣に考えるのです。
そして、それだけの能力がある人ならば、効率よく作業するための術を見つけることができるようになるでしょう。

仕事というのも、受験と同じで言わば「競争」です。
多くの給料をもらうためには出世しなくてはならないし、会社としても他社よりも多くの商品を売り上げる必要があります。

他の人と同じことをしていても競争に勝つことはできません。
勝つためにはそれだけの「工夫」が必要なのです。

時間がない

現代人は忙しいです。
学生時代が終わってからは、誰もが「時間がない」ということに一度は悩むはずです。
仕事量を減らすことができれば良いのですが、それは現実的ではありません。

同じ時間でより多くの作業をこなす方法を考えるべきです。

そして、その問題を解決するためには、効率を考えた仕事をするためにどうすればよいか、本気で取り組む必要があります。
しかし、子供時代からそう言う意識を持って何かに取り組んだ経験のない人間にとっては、それは難しいことでしょう。

しかし、勉強というのは、誰もが強制的に参加しなくてはならない、将来を賭けた競争です。
親も先生も子供も、勉強の内容が将来何の役に立つのか理解していてもいなくても、良い成績をとるため、とらせるために頑張るのです。
子供たちに「本気で何かに取り組む機会」を半ば強引に与えていると言い換えても良いかと思います。

そういう意味で、義務教育や高校で、勉強を工夫しながらやっていくと言うのは意味があることなのかもしれません。

まとめ

ここで書いたように学校での勉強というものが「自分で考える能力」を育むためのものだとしたら、必ずしも学校の勉強でなくても良いのかもしれません。
まあ、勉強というのは国民全員が強制的に参加させられる最も巨大なレースなので、そういう意味では勉強がベストです。

しかし、ぶっちゃけて言えば勉強でなくても、たとえそれがゲームでもスポーツでも良いのです。
「何かに本気で取り組むこと」が子供時代には必要なのではないでしょうか。
本人が何かの分野で一番になるために頑張ると言うのが、子供の将来にとって最も重要なのではないでしょうか。

そして、親は子供が一生懸命やっていることに対して「肯定」してあげる事が大事です。
一般的な親というのは勉強以外は否定的な傾向があると思うのですが、それが子供にとって一番悪影響をおよぼすと思います。

僕は中学校時代は学校の勉強を頑張っていたし、成績も良かったです。
しかし、高校に入学してしばらくして、美術系の進路に決めてからは学校の勉強はほとんどしなくなってしまいました。
藝大の受験は実技がメインなので、学科はあまり必要なかったからです。
勉強をするための目的を見失ってしまったのです。

その時からずっと、学校の勉強の意味って何だったのかな?ということを考えるようになりました。
義務教育はもちろんのこと、高校や大学を卒業して「学校」というものと関係なくなっても、その答えを探している自分に気づくことがあります。
ずっと自分の納得出来る答えが見つからなかったのですが、最近になって「勉強は、自分で物事を考えてより良い判断ができるようにするための能力を鍛えるための訓練だったんだ!」と言うように思うようになって、やっと納得出来ました。

思えば、中学校時代に定期テストが近づくと、自分なりに効率を考えてその対策をしてきたという経験は、今も生きているような気がしています。

そんなわけなので、子供時代の学校の勉強というのは、「内容には意味はない」けれど「自分で考えて頑張るということに意味がある」と言う事を思った、という話でした。

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