アートは「説明」かもしれない

わかりやすく説明する練習をしよう。

”わかりやすく説明をする練習をしよう”という本を読みました。
本書には、「説明」という行為は誰でもできることだけれど、他人にわかりやすく説明するために、しっかり「説明」について考える人は少ないと書かれています。

例を挙げるとすれば、誰でも走ることはできるけど、ランニングのより効率の良いフォームについて考える人は少ないということです。

そのために、どうしても自分の説明しやすいやり方で物事を説明してしまいがちです。

説明に必要なのは共感です。
常に相手の視点に立って物事を説明することが大事です。
説明をする相手が、説明しようとしている物事を理解しているレベルを考えて説明をする必要があります。

例えば、パソコンを初めて触るようなおばあちゃんにパソコンの使い方を教えるときに「コマンドプロンプトで〜」とか「このOSは〜」なんて言葉をいきなり使ってもわかるはずありません。
そんな電源を切るときにコンセントを引っこ抜いてしまいそうなおばあちゃんにはまず、パソコンの電源の入れ方から教えてあげるほうが良いと思います。

難しくて複雑な事柄でも、その人のレベルに応じて簡単なところから順々に説明すれば、いつかは理解できるかもしれません。
相手の力量を考えて説明する方向性と方法を決めることがわかりやすい説明をするための第一歩です。

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”わかりやすく説明をする練習をしよう”を読んだ感想と、アートに関連して思ったこと

アートと説明は似ている

”わかりやすく説明をする練習をしよう”を読んでいて思ったことがあります。
」も説明の一種かもしれないということです。

アートには、いろんな種類のものがあります。
立体なのか平面なのか?
技法はなにか?
素材はどんなものを使っているのか?
作家の数だけあると言っても過言ではないかもしれません。
その中でも共通しているのは「アーティストが作品のテーマについて表現する」という部分です。

例えば、あるアーティストが作った、りんごをモチーフにした作品があるとします。
りんご
りんごに対して、僕たちは様々なイメージを持つはずです。

  • 聖書の知恵の実
  • 白雪姫の毒りんご
  • 甘酸っぱい
  • 赤い
  • 青森県で国内生産50%
  • ニュートン、万有引力
  • アップル社

ちょっと考えただけでもこれだけたくさん連想できます。

作品のモチーフにりんごを使った、ということはそこに何か意味があるはずです。
その「りんごの作品」にはそのアーティストの視点でりんごについて思うこと、もしくはある事柄に対して思うことをりんごという果物の形を借りて表現していると考えられます。
作品を通して誰かに何かを伝えたい。
つまり、作品とは作者の意図を他者に「説明」することが目的なのです。

故に、アートは「説明」の一つの形式であると考えることが出来ます。

知の呪縛

無数にあるりんごのイメージの中からどれかを利用して、作品を見た人に共感してもらえれば作品として成立するはずです。
しかし、アートというものは「わかりにくい」「難解」という側面もあります。
作品を見ても、タイトルを見ても、作品の説明文を読んでも、何を表現しているのかわからない場合があります。
それは、観る人と作者のレベルが一致してないことが原因です。

それはけして、アートの素人にはわからなくて当然!とかそういう意味ではありません。

これを、”わかりやすく説明をする練習をしよう”では「知の呪縛」と表現していました。
知の呪縛とは、説明する物事に対して理解が深くなればなるほど、理解度が低い人の気持ちがどんなだったかわからなくなってしまうというものです。

普段、専門家同士でその分野について話すのならば、難しい専門用語が出てきてもスムーズに素早く理解することが出来ます。
しかし、それが当たり前になりすぎて「そのくらいわかるはずだ!」と、つい素人に説明するときも専門用語をバリバリ使って説明してしまうことがあります。
自分よりも理解度の低い人がわかるように説明するには、それだけ工夫が必要ということです。

アーティストの仲間達とばかりアートの話をしていると、一般的なアートのことを何も知らない人の気持ちを忘れてしまうかも知れません。

自分以上に作品を理解している人はいない

作品制作においては知の呪縛に陥りやすい、もうひとつ問題があると思います。
自分の作品を客観視することは難しいことだということです。

アートなどの創作物を作るときに困ってしまうのは、作品について一番理解しているのは他ならない作者自信だということです。
自分で作った作品ですから当たり前ですよね。
作品のアイデアを考えるときや、制作をするときは一人で黙々と作業をするものなので、他者の客観的な意見を取り入れることも出来ません。

「自分だけの世界観」を作る、ということが作品制作の側面の一つです。
しかし、作品を観てくれる「他者」の存在を考えて制作をしないと優れた作品は作れないと思います。

観る人を置いてけぼりにして、作品の内容が飛躍しすぎたものになってしまうと、本当の意味で共感を得ることは出来ないと思います。

わかりやすすぎるのも考えもの

だからといって、わかりやすすぎる直球な感じのアートはつまらなく感じてしまうと思います。
わかりやすさを維持しながらも、面白く感じるような作品にしなければなりません。
もしくは理解してもらえるための工夫があれば良いと思います。

これがアートと説明の違うところです。
それが「センス」というものかもしれません。

「説明」はわかりやすければわかりやすいほど良いものですが、「アート」は展覧会に来てくれたお客さんの心をつかむ必要があります。
なかなか、そんな完璧な作品は作れないものですけどね。
おもしろさとわかりやすさの両立はかなり難しい課題です。

まとめ

本書には、説明とは創造的でアート的な行為であるとも書かれています。
事実をどのように人に伝えるかというのは、その人のセンスによってあらゆる方向性が考えられるからです。

作品を作る人間として、作品を観てくれる人に対して、伝えたいことをどのように伝えればよいのか、考え続けていきたいと思います。

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